自分を満たし、自分が満ちる。~Selfill~

「私」という一人の人間を自分らしく生きることを追求し、"want"を信頼してそれだけを選び続けていったらどうなるの?という実験中の日々の気付きと発見のブログ

実は羨ましいだけだったりね。

他の誰かを見てイラッとする時。

 

 

なんでそんなことするの?

普通、そんなことしないよね?

なんでできちゃうわけ?

 

この前も言ったと思うけど、まだ直ってないね?

話、聞いてたの?

何度言われればわかるのよ?

 

そんなだらしないことしていいと思ってるの?

常識からすれば考えられない事でしょ?

 

あなた、頭悪いの?

本当はわかっているんでしょ?

 

だったらちゃんとやりなさいよ!

私の言うとおりにやりなさいよ!

私が言うとおりにやっていれば間違いないのよ。

その通りにやること、わかった?!

 

 

っていうようなセリフが(長いしリアルすぎるw)

一瞬にして頭の中を駆け巡って、

 

 

本当にその通りに言うことができたなら、

それはそれですっきりするかもしれないけれど、

 

きっと言った後で反省しちゃったりするのよね。

自己嫌悪とか。

 

あぁ、言っちゃった、ごめんなさい、的な。

 

 

あと、大半はその通りのことを

相手に言うことができないから、

 

イラッとしたそのエネルギーが自分の中で反芻されて、

モヤモヤとイライラが増幅されるパターン。

 

モヤモヤして、イライラして、

その気持ち悪いエネルギーが漏れ出てしまって、

相手にもそれが伝わってしまったりね。

 

 

いずれにしても相手とうまくコミュニケーションが取れていないし、

そのまま行くと険悪な状態になりかねないのだけれど。

 

 

その原因を、相手のせいだ!

相手が変わってくれさえすれば解決するのに!

 

って、思っていたりしないだろうか?

 

 

結論からすれば、

そのイライラする相手に見ているイライラの原因って、

自分の中にあるものだったりする。

 

その上、基本的に自分以外の誰かを変えることはできない。

 

 

だって自分が相手に、

「お前が変わればいいのに!」って言われたら、

素直に聞けないでしょう?

 

「いやいや、私は悪くない、

 あなたが変わるべきでしょう!」

 

とか言っちゃうでしょう?きっと。

 

お互いにいい合う無限ループ(笑)

 

 

ま、たまにそんな光景を見かけると、

私はそーっと距離を置いて立ち去ります。

 

 

面倒だからね。

 

 

きっとその人たちはそれが好きなんだと思うし、

自分が被害者の立場でいることが心地いいんだから。

 

自分で選んでそうしてる。

 

だから、ご自由にしていたらいいのだ。

 

 

だから、ご自由に何を選んでもいいのだけれど、

私は私自身が心地よくあるために、

 

もし誰かにイラッと来たら、

その質が自分の中にあるのだと味わうようにしてる。

 

すると、

実は自分が心の底で「したい」ことを、

相手が楽しそうに「して」いるから、

 

羨ましくて

自分もそれをやりたくて

でも自分でやっちゃいけないと頑なに信じているもんだから

どうしたらそうできるのかわからなくて

 

羨ましすぎるあまり、相手に禁止しちゃうんだよね。

 

それ、やっちゃだめよ!って。

 

 

でもそれ、相手に禁止しても、

どうせまた別の相手がやっちゃうから無限ループ。

 

 

自分が許可したらいい。

やりたいことを好きなようにやっていいと、許可したらいい。

 

相手が変わるのを待つより(おそらく永遠に無理だし)

自分が変わってしまった方がはるかに速いよ。

 

 

例えば。

 

何度言っても学校に連絡帳を忘れ、

持ち帰ってきても何も書かれておらず、

今日の宿題の範囲が分からず、

結局宿題も忘れる長男にイライラするのは、

 

私自身がもっと気楽に楽しく、

「やるべきこと」に取り組みたいと思っているから。

 

ちょっとくらい雑でも、楽しめるようでありたいから。

 

忘れてもケロッとニコニコしている長男を見ていると、

羨ましいんだよね、私。

 

あんなにご機嫌にどんな場面でもできたら、最高だろうなって。

 

 

あぁ、そうか、そうか、

 

私はやっぱりもうちょっといい加減でありたいんだな。

ゆるく在ることを自分に許可したいんだな。

 

気楽に楽しくやりたいんだな~。

 

 

よっしゃ、それを許可していこう。

 

もっともっと気持ちよく取り組んでいくチャレンジにしよう。

 

そしてできなくても大丈夫であることを、

認めて受け入れていこうっと。

 

 

 

 

 

ありのままの自分を生きる約束。

 

濃い、濃い、11月が終わろうとしています。

 

 

アムリタ熟の熱冷めやらぬまま、

AFPティーチャートレーニングに参加してきました。

 

 

長野県にある女神山という何とも美しい響きの地で、

私は自分自信としっかりと繋がり、

そして深い約束をしたように感じます。

 

 

私は、

自分の内側にも外側にも嘘をつかず、

ありのままの自分で、

そのまんまの自分で、

 

自分の弱さや醜さや至らなさを認め、

それと同時に、

自分の才能や美しさや奥深さをも受け入れ、

 

自分の最先端を生き、

時代の流れの先頭に立つ勇気を持ち、

 

嵐が来ようとも自分に屈することなく、

真っ直ぐに自分を信頼して、

自分の道を生きていく。

 

 

 

 

幸せになるにはまず、

自分が自分を幸せにすることからだろうと、

漠然と長い間感じていました。

 

でも世間には、

自分を犠牲にして人に尽くすことこそが美しいと、

そんな風潮が強いように感じていて、

そうできるように頑張ってきたけれど、

やっぱり私はそのプロセスで幸せは感じられなかった。

 

自分が冷たい人なのか、

心が狭い人なのかと、

そのことでまた自分を責めて苦しい時間も過ごしてきました。

 

 

でも。

 

ここ1年半ほど、

愚直なまでに自分をそのまま認め、

そのままの自分を受け取ることに徹してきたことで、

それは嘘ではなかったのだと。

 

幸せはまず自分で自分を満たすことから始まるのだと、

確信するに至ったのです。

 

 

自分が我慢することや、

嫌々ながら引き受けることは、

自分自身に嘘をついていることに他なりません。

 

それは嫌です、

それはできませんと、

素直に伝える勇気を持てる人こそが、

自分を尊重し、自分を愛することができる人。

 

そのことで誰に何と言われようと、

自分の内側に嘘をつかず、

外側にそのまま伝えていける在り方の人。

 

それができない時でさえ、

そんな自分がいることをそのまま認められる人。

 

 

自分に嘘をつかないこと。

自分を愛し、自分を満たせること。

 

 

それは、結果として、

周りにいる人を幸せな気持ちにすることも、

確信するに至りました。

 

 

そして私もそれを体現するひとりとして、

準備が整ったように感じています。

 

 

 

女神山では

AFP(Art of Feminine Presence)の認定ティーチャーとなりました。

 

これからはAFPを通じても、

人がそれぞれ持っている力を最大限に活かして、

自分の可能性を生きる、

そのサポートを積極的にしていきます。

 

女性が持つ力は、本当のパワフルです。

 

私が自分自身でそのシェアをすることができるようになったことが、

本当に心から嬉しく、そして誇りに思います。

 

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アムリタ熟を終えて。

この週末、半年にわたって参加していた、

「アムリタ熟」の最終合宿に参加してきました。

 

この「アムリタ熟」で何をしてきたのか?

その詳細はまた後日くわしく書くとして、

 

今は、この自分自身に起きていることや、

感じている感覚を自身への忘備録を兼ねて

書き留めておこうと思います。

 

 

 

6月からの半年間、毎月違ったテーマで

自分自身の内側を感じながら、

それを表に現してゆくこと。

 

すなわち「表現する」ことを重ねてきました。

 

 

自分の内側を感じる、ということ。

 

 

それは、

見たくない自分を見ることでもあるし、

気付きたくない自分に気付くことでもあるし、

 

また、

自分の美しさや、

溢れ出す才を、

「受け取る」ということでもあります。

 

 

それを、「表現する」。

 

 

自分の醜さを、表に出していくこと。

 

自分の弱さを、表に出していくこと。

 

自分の未熟さを、表に出していくこと。

 

同時に、

 

自分の美しさを、表に出していくこと。

 

自分の歓びを、表に出していくこと。

 

自分の熱を、表に出していくこと。

 

 

それを、仲間たちに見守られながら、

毎回毎回、皆が勇気を持ってチャレンジしてきました。

 

一回一回、枠を飛び越えていきました。

 

 

そして最終合宿では、

皆がそれぞれ自分の内側から溢れ出してくる、

「ありのまま」を、

思い思いのカタチで表に出し、表現しました。

 

 

私は、

自分の内側から湧き上がってくる情熱を、

1ミリも抑えることなく、

ごまかすことをせず、

湧き上がってきたそのまんまの熱量で、

表に出していくというチャレンジをしました。

 

 

情熱のある人、とよく言われるし、

自分でもそれは知っていたつもりだったけれど、

 

こんなにも大きな熱量が自分の内側にあるとは、

今の今まで、私は知らなかった。

 

 

荒れ狂う猛獣のようなエネルギーが立ち上り、

私は自分がどうかなってしまうのではないかと、

ちょっと恐かったような気がします。

 

 

全身が震え、涙が溢れ、大声で叫び、

このまま死んでしまうのかもしれない。

 

 

でも、それを止めずに、

そのまま突き抜けることにチャレンジしたのです。

 

 

何を話したのかは、あまり覚えていません。

 

でも、はっきりと覚えているのは、

 

「誰に嫌われてもいいの。だって私の人生だから。」

 

というフレーズ。

 

 

そのくらい私は、

自分を生きるということに情熱を傾けて、

生きてきたんだな。

 

そしてこれからも、生きていきたいんだなってこと。

 

 

それに、気付いたのでした。

 

 

自分の時間で出し切った後は、

ただただ「空(くう)」の感覚でした。

 

 

やった!という達成感でもなく、

喜びという訳でもなく、

 

ただただ、淡々と、空。

 

そして自分の内側は、

今までに感じたことのないほどに

清々しく透き通った感覚で満たされていました。

 

 

自分らしさ、という言葉を、

私は今までもよく使ってきたけれど、

 

私自身が思っていた「自分らしさ」と、

最終合宿で出現してきたそれとは、

あまりにも別のものでした。

 

 

いや、周りの人から見たら同じだったのかもしれない。

 

みおちゃんらしい、かもしれない。

 

 

でも、それで思ったのは、

他の誰よりも、

私自身が「自分らしさ」という枠に囚われて、

本来の自分らしさを表現できていなかったんだなってこと。

 

自分が、自分の「らしさ」を押し込めていたんだよね。

 

 

私らしさ

あなたらしさ

自分らしさ

 

っていう、「らしさ」に囚われてしまうと、

それ以外の自分の側面が表現されなくなってしまう。

 

 

すごく、すごくもったいないことだなって。

そう思いました。

 

 

だからやっぱり、

今この瞬間に感じていることを表に出していくことこそが、

自分を表現する唯一の方法なのだなと。

 

そう思うのです。

 

 

 

自分の核にある、

どでかい情熱を外に放出したことで、

 

合宿から帰ってきてからというもの、

自分の内側で大きなものが動き始め、

身体の中で渦を巻いているのが分かります。

 

落ち着かないし、

些細なことでイラッとするし、

眠いし、

感傷的になるし。

 

 

でもそれはある意味、

今まで封印してきた本来の自分のエネルギーが

本格的に外に出ようとしているからだろうと、

私はそう感じています。

 

 

今まで、本当に長い間、

外に出ないように頑張ってきたからね。

 

そして、

そうしてきたからこそ、

そうできてきたからこそ、

私は今こうして生きていることができて、

幸せでいられる。

 

 

でも、もう押し込めなくても大丈夫なのだと。

 

もう封印を解いて、開いても大丈夫なのだと。

 

その時が来たと分かったからこそ、

エネルギーの塊の猛獣が龍となり、

立ち上り、外に出ようとしているように感じているのです。

 

 

私はもう、あるがまま、

なるように信頼して委ねていきたいと思っています。

 

 

そしてきっとその先に、

そのエネルギーを余すことなく活かして、

歩む道が開けることを知っているから。

 

 

 

自分を信頼するということは、

自分の内側にも外側にも嘘をつかず、

どんな時も自分自身に真っ直ぐでいられること。

 

その積み重ねなのだと思います。

 

それが重なれば重なるほどに

自分への信頼が増し、

 

それと同時に周囲への信頼も増していきます。

 

 

それは、豊かな世界です。

 

 

今まで嫌だとか、憎いとか、邪魔だと思っていたことが、

実は愛に満たされていたことが分かるから。

 

 

相手を変えるのではなく、

自分が変わること。

 

自分が変わることを許すこと。

 

自分が変わっていくことを楽しむこと。

 

多面的な自分に出会っていくことを面白がること。

 

 

それができるからこそ、

相手を心から尊重し、

許すことができるようになるんだ。

 

 

それを、思考で理解するのではなく、

体感を通して体験し、肚落ちすること。

 

これ以上にパワフルな経験はない!

 

 

自分を探求する旅に終わりはないし、

これからもまだまだ続きます。

 

でも、それが楽しみで仕方ない。

 

 

どんな自分に出会えるんだろう?

 

どんな人生がクリエイトされていくのだろう?

 

 

落ち込む自分も、すねる自分も、

弱い自分も、できない自分も、

わがままな自分も。

 

情熱的な自分も、華のある自分も、

リーダーである自分も、才ある自分も、

 

ぜーーーーんぶ受け取って。

 

 

私はまた、一歩を前に踏み出してまいります。

 

 

追伸:

半年間みっちり一緒に歩んでくれた仲間たち。

本当に本当にありがとう!最高の宝物!

 

 

今日はなんでもない日。

旦那さんが早く帰ってきて、

家族みんなで夕ごはん。

 

 

食べ終えると、

無性に甘いものが食べたくなり、

 

「甘いものが食べたいなぁ」

 

と言ってみたら、

旦那さんがひとっ走り、

ケーキを買ってきてくれました。

 

 

箱を開けると色とりどりのケーキ。

 

「今日はなんの日だっけ?」

 

と口をついて出てきたけれど、

 

特になんでもない日だって、

みんな揃ってケーキ食べたっていいじゃないか!

 

って、同時に湧いてきて、

思わず笑っちゃった。

 

 

なんの記念日でもなくたっていいし、

なんなら、

みんな揃って夕ごはん記念日にしたっていい。

 

 

自分がしたいことができるって、

なんて幸せ。

 

 

もっともっと、

自分の希望を叶えてあげたいな。

 

 

私は、私を、

どんどん幸せにしてあげることが、

とっても嬉しいことだから。

 

「安定」ってなんだろね?

今朝の電車の中で、

スマホでニュースを見ておりましたら、

 

私個人的には何ともインパクトのある

社長更迭のニュースが目に飛び込んできまして…

 

おぉぉぉぉーーーーーと思いながら、

ふと頭に浮かんできたのが、

 

「安定ってなんだろね?」

 

という問いでした。

 

 

あなたにとっての「安定」とはなんですか?

 

 

***

 

私は仕事で大学生と関わっているので、

彼らの進路について共に考える時間が多くあります。

 

 

公務員になりたい

大企業に就職したい

一部上場企業がいい

知名度のある会社に入社したい

 

などなど本当によく聞くフレーズなのですが、

 

「どうして?(Why?)」

 

という問いに対して返ってくる言葉はただ一つ。

 

【安定しているから】

 

 

これはまぁ、学生に限ったことではなく、

大人からもよく聞きますね。

 

 

私、新卒で入社してから、

転職も含め、

 

いわゆる

 

大企業で

一部上場企業で

知名度のある会社

 

に常に身を置いておりました。

 

 

だから逆に、

ベンチャーや中小企業での勤務経験はありません。

 

 

が。

 

それらの組織から離脱して、

個人事業主として仕事をしている今の方が、

安定している感覚は断然強いです。

 

 むしろ、会社員時代の方が不安が強かった。

 

 

「それってなんでだろう?」

 

 

それを考えるにはまず、

安定とは何か?を明確にしないといけません。 

 

 

辞書には

 

あんてい
【安定】
《名・ス自》
1.
激しい変化がなく、物事が落ち着いた状態にあること。
2.
物理・化学
物体・物質に少々の変化を与えても、もとの状態にもどろう、

またはもとの状態を保とうとする性質を示すこと。

 

とあります。

 

 

ここからは「私にとって」の安定について。

 

 

私にとっての安定とは、

 

自分自身が心からやりたい!と感じていることに、

精一杯取り組んでいること。

 

また、

日常の中で自分が意図しないような出来事が起こった時でも、

自分が自分自身を信頼して、

目の前にあることをいつでも真っ直ぐに受け取って、

自分で考え、行動している状態。

 

です。

 

 

簡単に言うと(初めからそう言え)

 

自分が心からやりたいことをして、

どんなことが起こっても全部引き受け、

じゃどうする?やってみよう!と

自分自身と相談して決め、動けている状態

 

にいられると、

安定感がますます上がってくると感じています。

 

 

自分で自分を安心させられること。

 

自分以外の他の要因に対して、

自分以外の問題に仕立てあげることなく、

自分に問いかけて、

自身の課題として取り組み、

自ら実践、行動していくこと。

 

 

どこかの組織にいれば安心、安定、なんてことないのですよ。

 

その組織の中にも、安定を感じている人もいれば、

そうでない人もいる、という事実を見れば、

組織の問題ではないことは一目瞭然。

 

 

しかもその組織というのは、

自分の意思や意図に関わらず、

指示や指令という形でおりてくるものですから、

 

ある日突然、

解雇になるかもしれないし、

破綻するかもしれないし。

 

会社組織だけでなく、

結婚も、

お金も、

パートナーシップも、

住まいも、

肩書きも、

所属も、

知名度も、

全部同じで。

 

 

自分以外の他の誰かに

「安定させてもらう」ことを望んでいる状態は、

自分でコントロール不可能な分、不安定。

 

 

つまりは、自分次第。

 

組織に属するも、属さないも、

それによって安定が保障されるものではなく、

 

全ては自分自身の意思であり、

何を意図するかによって変わってくるというもの。

 

 

安定とは、自分の内側がみたされていることが

絶対条件だと思うのです。

 

 

外側の条件に左右されないからこそ、

安定できる。

 

 

どんなときでも自分の内側にくつろぎ、

安心感を得られるからこそ、

落ち着いた状態を自分で創り出せる。

 

 

それが、安定だと私は思うのです。

 

 

 だからね。

 

私、年が明けたらその状態を自分自身で創り出せる、

そのワークをシェアしていくことを始めますよ。

 

みんなね、頭(思考)でがんじがらめになっているから。

 

身体を頼りにすること。

自分自身を一番のコンサルタントに育て上げること。

 

 

そうすると、どんな時も安定を感じながら、

より豊かな自分の時間を創り出していくことができるから。

 

 

安定、自分で創り出そう~。

 

 

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我が家の「安定的な」癒しをくれる二人

許すということ。

今日は学芸会。

我が家の二人もそれぞれの学年でがんばりました~。

 

大きな声で、堂々とセリフを言って、

なんだかもう、すっかり少年の風格だなぁ。

 

そして、

少年少女たちの圧倒的純度の高いエネルギーは、

感動モノでした。

 

特に高学年ともなると、

ひとりひとりの存在感が増して、

その上彼らのエネルギーがピュアなのだから、

もう、涙なしには見られません…。

(自分のこどもは出演していないけど)

 

 

***

 

 6年生のセリフの中に、

 

「人間にとって最も美しいものは【許す】ことだ」

 

というセリフがありました。

 

 

【許す】

 

これをまずする相手は、「自分自身」だろうと。

 

そのセリフを聞いた瞬間に私は感じました。

 

まずは自分自身を【許す】こと。

 

これができない限り、

本当の意味での許しは、成し得ないだろうと思うのです。

 

 

目の前で起こる、不愉快なことや、理不尽なこと。

 

何か自分にとってイラッとさせられる瞬間。

 

 

それが本当はそれらが許せなくて、

それくらい怒りが湧いてきているのに、

 

その怒りという自分自身の思いを無視して、

自分がその思いをぐっとこらえて、

「我慢」さえすればいいのだと。

 

そう思って、

その選択をして、

 

「(仕方ないから)許してあげる」

 

となった瞬間に、

 

自分は被害者となり、

相手を加害者に仕立て上げてしまうから。

 

 

自分が被害者の立場をとることで、

相手を加害者に仕立て上げることで、

 

自分が得たいものは何だろう?

 

 

優しい人、と思われたい?

 

器の大きい人、と思われたい?

 

 

それは果たして、

相手を【許す】ことに繋がっているのだろうか?

 

 

それよりも、

その時に湧き上がってきた怒りを、

怒っている自分を、

 

【許す】

 

ことが先ではないだろうか?

 

 

怒っている自分

相手を許せない自分

小さなことでイラッとする自分

八つ当たりする自分

 

そういう自分がいる。

 

その醜い自分が存在する、ということそのものを、

「許す」ことが先ではないだろうか。

 

 

優しくなくて、

器が小さい自分の声を、

 

どこまでもどこまでも見放すことなく、

その声に耳を傾け続け、

抱きしめ続けること。

 

それが、【許す】ことにつながるのではないだろうか。

 

 

自分を置いてきぼりにした、

上辺だけの許しなど、

幸せを生み出していくことなどひとつもできない。

 

自分を犠牲にして、

その上に積み重なったものなど、

ただの重苦しいプレッシャーだけ。

 

 

私もこんなに我慢してきたのだから、

あなたも我慢しなければならない、

 

 

などという、

これ以上非生産的な思考があるのかというほどの、

【許す】の反対にある【禁止】。

 

つまり、

誰かを縛り付けて動けなくして奴隷にするという、

人間にとってこれ以上の苦痛はないのではないか?という

負のループの始まりにしかならない。

 

 

そうではなくて。

 

まず、自分を許す。

 

醜い自分も、

弱い自分も、

欲深い自分も。

 

そして、

 

才能ある自分も、

魅力ある自分も、

情熱のある自分も。

 

【許す】

 

 

自分に許せていると、

他人にも優しくなれる。

 

みんなの中に、両方が「在る」ことが分かるから。

 

そして、それを認められるようになるから。

 

 

だから、もっともっと自分を許してゆこう。

 

 

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人生、自分次第。

「タイムマシンがあったら使いたい?」

 

と、長男に聞かれ、

ちょっと考えてしまった私。

 

過去に戻りたいとは思わないし、

一足飛びで未来に行きたいという訳ではないけれど、

 

もっともっと前の時代の私とか、

もっともっと先の時代の私とか、

 

会いたいような、会いたくないような、

知りたいような、知りたくないような。

 

「使いたいような気もするけど、使いたくないような気もする」

 

と、答えました。

 

 

長男は使いたいそうで、

その理由は、

 

「前にあった嫌なことを消したい」

 

とのこと。

 

9年間の人生でも、

消したいような過去があるのか…

 

 

「でも嫌なことを消しちゃったら、

 いいことも消えちゃうんじゃないかな?」

 

とふと呟きましたら、

 

「それも知ってる。」

 

だそうで。

 

 

全ては表と裏があり、

陰と陽があり、

光と影があり、

プラスとマイナスがある。

 

だからこそ、「存在」できるんだけれども。

 

 

そのどちらか一方を消してしまったら、

もう一方も消えてしまうよね。

 

 

だから、短所は長所でもあるし、

長所は短所でもあるけれど、

 

短所を改善しようとしすぎると、

長所としての魅力も同時に薄れる。

 

 

両方、ある。

 

両方、必要。

 

 

だから、

目の前に嫌だなってことが起こったら、

それはより成長できるチャンス。

 

 

本当は自分はどうしたいのか?

 

その問いを深めていけるチャンスだよね。

 

 

だから、見て見ぬふりしない。

 

だから、痛みを感じていないふりをしない。

 

だから、痛い時は痛いって言っていいんだよ。

 

 

痛い、痛い、ってひとしきり泣いてすっきりしたら、

また顔をあげて前に進んでいけるから。

 

 

感じないふりをしない。

 

それはチャンスだから。

 

 

だから、人生はやっぱり自分次第なんだよ。