自分を満たし、自分が満ちる。~Selfill~

「私」という一人の人間を自分らしく生きることを追求し、"want"を信頼してそれだけを選び続けていったらどうなるの?という実験中の日々の気付きと発見のブログ

許すということ。

今日は学芸会。

我が家の二人もそれぞれの学年でがんばりました~。

 

大きな声で、堂々とセリフを言って、

なんだかもう、すっかり少年の風格だなぁ。

 

そして、

少年少女たちの圧倒的純度の高いエネルギーは、

感動モノでした。

 

特に高学年ともなると、

ひとりひとりの存在感が増して、

その上彼らのエネルギーがピュアなのだから、

もう、涙なしには見られません…。

(自分のこどもは出演していないけど)

 

 

***

 

 6年生のセリフの中に、

 

「人間にとって最も美しいものは【許す】ことだ」

 

というセリフがありました。

 

 

【許す】

 

これをまずする相手は、「自分自身」だろうと。

 

そのセリフを聞いた瞬間に私は感じました。

 

まずは自分自身を【許す】こと。

 

これができない限り、

本当の意味での許しは、成し得ないだろうと思うのです。

 

 

目の前で起こる、不愉快なことや、理不尽なこと。

 

何か自分にとってイラッとさせられる瞬間。

 

 

それが本当はそれらが許せなくて、

それくらい怒りが湧いてきているのに、

 

その怒りという自分自身の思いを無視して、

自分がその思いをぐっとこらえて、

「我慢」さえすればいいのだと。

 

そう思って、

その選択をして、

 

「(仕方ないから)許してあげる」

 

となった瞬間に、

 

自分は被害者となり、

相手を加害者に仕立て上げてしまうから。

 

 

自分が被害者の立場をとることで、

相手を加害者に仕立て上げることで、

 

自分が得たいものは何だろう?

 

 

優しい人、と思われたい?

 

器の大きい人、と思われたい?

 

 

それは果たして、

相手を【許す】ことに繋がっているのだろうか?

 

 

それよりも、

その時に湧き上がってきた怒りを、

怒っている自分を、

 

【許す】

 

ことが先ではないだろうか?

 

 

怒っている自分

相手を許せない自分

小さなことでイラッとする自分

八つ当たりする自分

 

そういう自分がいる。

 

その醜い自分が存在する、ということそのものを、

「許す」ことが先ではないだろうか。

 

 

優しくなくて、

器が小さい自分の声を、

 

どこまでもどこまでも見放すことなく、

その声に耳を傾け続け、

抱きしめ続けること。

 

それが、【許す】ことにつながるのではないだろうか。

 

 

自分を置いてきぼりにした、

上辺だけの許しなど、

幸せを生み出していくことなどひとつもできない。

 

自分を犠牲にして、

その上に積み重なったものなど、

ただの重苦しいプレッシャーだけ。

 

 

私もこんなに我慢してきたのだから、

あなたも我慢しなければならない、

 

 

などという、

これ以上非生産的な思考があるのかというほどの、

【許す】の反対にある【禁止】。

 

つまり、

誰かを縛り付けて動けなくして奴隷にするという、

人間にとってこれ以上の苦痛はないのではないか?という

負のループの始まりにしかならない。

 

 

そうではなくて。

 

まず、自分を許す。

 

醜い自分も、

弱い自分も、

欲深い自分も。

 

そして、

 

才能ある自分も、

魅力ある自分も、

情熱のある自分も。

 

【許す】

 

 

自分に許せていると、

他人にも優しくなれる。

 

みんなの中に、両方が「在る」ことが分かるから。

 

そして、それを認められるようになるから。

 

 

だから、もっともっと自分を許してゆこう。

 

 

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