自分を満たし、自分が満ちる。~Selfill~

「私」という一人の人間を自分らしく生きることを追求し、"want"を信頼してそれだけを選び続けていったらどうなるの?という実験中の日々の気付きと発見のブログ

自分を超えて、自分を生きよう!


「自分らしさ、という枠に囚われない」

 

ということが、
すこしずつ実感できて来たように思う。

 

自分らしさの先にあるものすら、
自分の中にあるものだからであって、

 

今の自分が認知できていない自分の中にあるものなんて、
それこそ無限にあって、

 

 

認知できていない = 自分ではない

 

 

ということにしてしまうと、
ほんっとーーーーにもったいないよ。

 


苦手、とか

 

関係ない、とか

 

面倒くさい、とか

 

らしくない、とか。

 

それ言い訳にしてない?

 


そこに抵抗感があるからこそ、
目を逸らしたくなるのだろうけれど、

 

抵抗するってことは、
そこに「ある」ことが分かっているからこそであって、

 

それを「ない」ことにしようとすると、
途方もない労力がかかるし、

 

結局「ない」ことになんぞできない訳なのだから、

 

「抵抗している自分に抵抗する」

 

という、
無駄な抵抗はやめろ w

 


自分らしくない、
自分は好きじゃない、

 

というその先にも自分がいる訳なのだから、

 

そこに見たくない自分がいても
抵抗することなくその自分を受け入れてみて、

 

その先の自分に好奇心を持って寄り添ってみるのも
面白いもんなんだなーって思う。

 


抵抗感じながらもやってみたり、

抵抗感じながらも言ってみたりすると、

 

身体が何かを感じ取るので、
それをじっくりと味わったらいい。

 

心地よいかもしれないし、
そうではないかもしれないけれど、

 

自分が知らなかった自分に気付くだけで、
今まで感じたことのない何かを知ることができるかもしれない。

 


無限の可能性が自分の中にはあって、

 

だからこそ新しい自分に出会い続けることは、

 

その扉を無限に開き続け、
そして自分の幅を広げていくことにつながるんだと思う。

 


らしくない、

と思っていた自分がいることに気付くと、

 

すっごく楽になったよ、私。

 


自分なりにその場にそぐわないような、
かなり不適切な表現を意識してやってみたんだけど、

 

それでさえ、
その場にいた多くの人たちにとっては、

 

適切で、完璧で、自然な表現だった

 

と感じ取ってくれていたことを知った時は、

 

あーーーー、
もっともっと力を抜いて楽にしていていいんだな!

 

とわかったから。

 

私的にはかなりいい加減で、
場の空気を読まずにはっちゃけたつもりでいたのに

 

「完璧」だなんてね。

 

 

わたしゃ今まで何にエネルギーを費やしてきたんだ?(笑)

 


さぁ、自分を超えて、
自分を生きよう!

 

 

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もう逃げず、隠れず、出し惜しみせず。

思い切りやる、とか、

飽きるまでやり切る、とか、

 

中途半端に終わらせない、ってことが

私にとっては大切なことだったりする。

 

 

例えば最近私は、

自分の中にいつも渦巻いている、

「情熱」というものをすべて放出してみる、

というチャレンジをした。

 

 

情熱がある、

熱意がある、

アツい、、、

 

など様々な言葉で表現されてきたので、

自分にその質があることはわかっていたけれど、

どれだけの量があるのかはわからずにいた。

 

 

でも実際に吐き出してみようと決めて、

とにかく1ミリもごまかすことなく、

 

自分の中から湧き上がってきた言葉や感情を、

そのまんま出してみたところ、

 

言葉と

叫びと

涙と

嗚咽と

体の震えとなって現れ、

 

その原動力となっていたのは、

 

怒りと

 

理不尽さと

悔しさと

不甲斐なさと

情けなさと

無力感と

孤独感と

寂しさと

悔しさとが

全部入り混じった絶望感だった。

(ような気がする。)

 

 

その絶望をすべて吐き出し、

これほど醜い姿を人にさらしたことがあるだろうか?

というくらいそのままの自分の姿を見守ってもらい、

 

吐き出して

叫び倒して

溢れるままに溢れ尽したら

 

まっさらになった。

 

なんだか、ホッとして、安心した。

 

なんか、満たされた。

 

大丈夫って思った。

 

 

そして心底、満足した。

 

 

そして溢れるままに溢れ尽した私の情熱は、

枯れることもなく、

日々こんこんと湧き出しては、満々と湛え、

今日も私の原動力になってくれている。

 

 

今まで私は自分の情熱を持て余していた。

 

出すと叩かれると思っていたから。

 

出る杭は打たれて痛いのが嫌だったから。

 

 

それで、

出ないように目立たないように

控えめに抑えて抑えて抑えてきたつもりだったけれど、

 

結局のところ抑えきることなんてできなくて、

漏れ出して気持ち悪い状態になっていた。

 

 

どうせ漏れ出てしまうのなら、

思い切り出しきったらいいのだとわかった。

 

 

やり切ってみると、とにかく自分で納得できる。

 

やらずにあとで後悔するのなら、

どうせならやって後悔した方がいい。

 

やって後悔するってこと、今までにないけれど。

 

やって上手くいかなくても、

経験になるし、気付きになるから無駄はない。

 

 

それより、途中で辞めたり、

中途半端なところで納得させようとしたことほど、

 

結果としてずるずると気持ちが切り替えられなかったり、

未練みたいなドロドロした感情に絡み取られて、

重い気持ちのままどんよりと日々を過ごすことになったりする。

 

 

だから私はとにかく、やり切ってみる。

 

そこが私が体育会系と称される所以かもしれない 笑

 

 

情熱を出し切ってみて、

自分の中にこんなに膨大なエネルギーがあり、

それがまた日々こんこんと湧き出していることが分かった私は、

 

もう出し惜しみすることをやめる。

 

 

人が、より豊かな時間を過ごせるように。

 

人が、より自分を愛して生きられるように。

 

人が、自分の可能性を信じて前に進めるように。

 

その人たちが、

お互いを尊重し合って和を創り出していけるように。

 

自分の身体と感覚を信頼し、

そしてまた本来の自分の感覚を取り戻して、

本質から立ち上がるエネルギーを原動力に変え、

 

自分が変容し、

周りに心地よい影響が伝わり、

 

その先には、

 

チームの

組織の

企業の

社会の

国家の

地球の

 

根本的な幸せの変容につながるウェーブを起こす、

その一端を担えるよう、

 

私の持つ全エネルギーを注いで、活動していきます。

 

 

もう逃げず、隠れず、出し惜しみせず。

 

 

そんな時が来たのだな、と感じています。

 

 

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カオス!

色々とやりたいことがたくさんあって、
その都度ワクワクするんだけど、
 
その都度「ちゃんとちゃん」が顔を出して、
「ちゃんとやるには今は時間が足りない」ってなる。
 
そして「ちゃんとできる時間」ってのは
やっぱり訪れなくて、
訪れたとしても何からやろう?って迷い始めて、
結局「ちゃんと」やれずに終わるのを繰り返している。
 
もういい加減「ちゃんとちゃん」に振り回されることから
卒業したいけど、
 
ちゃんと卒業できるにはどうしたらいいんだろうか?
とか考えてる私がカオス!!!
 
ちょっとでも時間ができたらちょっとでもやる!
 
ちゃんとできなくても、それはそれでいい!
 
「!」を連発していることから、
気合が入りすぎてよくない傾向だということも知ってる!
 
カオスだ!カオス!

仲間との出会いと自分を信じること

話せる仲間がいるってことが、

こんなにも心強いと思ったことはない。

 

話せる、っていうのは、

どんなに自分がぐっちゃぐちゃな時でも、

 

ちょっと話聞いて―

 

って言える仲間。

 

ビデオチャットとかzoomとか、

今は無料で顔見て話せるツールがたくさんあるから、

本当に素晴らしいなって思う。

 

 

そうやって、

自分がどんなにどん底にいる酷い時であっても、

受け止めてくれる仲間がいることで、

 

そんな自分がいてもいいんだ

 

と、自分自身を丸ごと認めていくのに

とても勇気になるし、助けになる。

 

 

というか、

私はそういう仲間に出会ってきたからこそ、

自分を丸ごと認めていくことができていっているように思う。

 

自分をまるごと信じられることほど、

安心できることはないようにも思う。

 

 

みんなの存在失くして今の私はいないし、

逆もしかりなのだと思う。

 

だとすれば。

 

 

私が私自身を信じて進んでいく姿を見せていくことこそが、

他の誰かの勇気になるのかもしれない。

 

そう思ったら、

自分に嘘をついて上辺で生きることは、

誰も幸せにしないのかもしれない。

 

 

私は、この人生において、

前者を生きたいと思う。

 

 

さぁ、どんな自分が待っているのか。

楽しみだ。

自分自身にくつろぐという感覚を取り戻す

帰ることができる場所があるというのは、

本当に有り難いことだ。

 

 

例えば、自宅。

 

自分の机周りは雑然としていて、

決して美しい状態とは言えないし、

リビングには子供たちの色々が散らばっているし、

 

ツッコミどころはたくさんあるんだけれど、

(年内に美しい場所に変身させよう♥)

 

やっぱり帰ってくるとホッとする場所。

 

 

 

そして、自分自身。

 

自分自身に帰ってくる場所って、

なんだか不思議な感じがするよね。

 

でも、それができるんだよね。

自分の身体の内側にくつろげる場所を見つけることが。

 

 

この気付きによって、

私自身が大きく変化していったのは、

 

最近色々な人から、

美しいお褒めの言葉をたくさんいただくことからも、

実証済みなのではないかと思う。

 

 

自分自身といつも一緒にいる、自分の身体。

 

その内側に自分がくつろげる場所があるということは、

いつでもどこにいても、

自分が自分自身にくつろいでいられるということ。

 

 

特に遠い場所に行かなくても

(もちろん行ったらそれは素敵な経験になるね)

 

特別なお金をかけて癒してもらわなくても

(もちろんそれは素敵な時間だよね)

 

いつでも必要な時は、

自分自身にくつろぐことができるって、

本当に素敵なこと。

 

 

自分が自分自身の居心地がいいっていうのは、

生きる上でのスペースが心地よいということ。

 

ということはだ。

 

いつどこにいても、快適にいられるということだ。

 

 

ま、もちろん常にそうできるわけではないよね。

人間だもの。 (笑)

 

 

だけどさ、

特別な時間やお金をかけて、

誰かに何かをしてもらわなくても、

 

自分の意識の持ち方次第で、

自分自身にくつろぐことができる時間が、

自分自身で創り出せるとしたら?

 

 

素敵だと思いませんか?

 

 

私は今回、

長野県の女神山で行われたトレーニングに参加し、

AFP認定ティーチャーとなりました。

 

ここ1年半ほどAFPを愚直に実践し続けてきて、

本当に革命的なワークだと私は感じています。

 

 

男性性の時代から、女性性の時代へ。

 

時の流れが大きくシフトしていくこの時に生きる私たちが、

意識をシフトしていく上で非常に有効だと感じています。

 

 

いよいよ私もAFPをシェアできることとなりましたので、

新たな年明けと共に、AFPのクラスを開催していきます。

 

詳細などは随時Facebookでお知らせしていきます。

皆様どうぞよろしくお願いします!

 

 

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愛すべき「ちゃんとちゃん」

私の中には「ちゃんとちゃん」が住んでいる。

 

 

「ちゃんとちゃん」はその名の通り、

”ちゃんと”やることが大好きだ。

 

いや、

好きというより、

 

【ちゃんとやらなければならない】

 

という強い思いを持って、

何事にも取り組もうとしてくれる方だ。

 

 

しかし、「ちゃんとちゃん」の”ちゃんと”は

その程度の定義が曖昧だ。

 

どの程度できていれば”ちゃんと”なのかが

明確に決まっていないから、

時として暴走してしまう。

 

 

”ちゃんと”やろうとするあまり、

 

時間がかかりすぎてしまったり、

見た目にこだわりすぎてしまったり、

正確に言語化しようとしすぎてしまう。

 

 

もっと正確に、

もっと丁寧に、

もっと美しく、

 

とやりすぎるあまり、

そのうちに

 

「私にはできない――――!!!」

 

と限界を感じてやめてしまうという事態に陥ったりする。

 

 

も…もったいなーーーい!!!

 

 

そこまでのプロセスで、

十分に伝えたり表現するに値することが

山ほどあるにもかかわらず、

 

「ちゃんとちゃん」の厳しすぎる基準に合格できないがゆえに、

無いことになってしまった事柄がどれだけあることか…。

 

 

 

だから私は、「ちゃんとちゃん」の話をよく聞き、

お互いにいい関係性を再構築することにした。

 

 

話をよく聞いてみると、

「ちゃんとちゃん」は私を守り続けてくれていたことがわかった。

 

 

”ちゃんと”正確にやることで、

”ちゃんと”丁寧に取り組むことで、

”ちゃんと”分かりやすい言葉で伝えることで、

 

相手に嫌な思いをさせず、

相手に迷惑をかけず、

相手の痒い所に手が届かせ、

 

気の利く人だ、

仕事が丁寧だ、

話の分かりやすい人だ、

優秀な人だ、

 

と、思ってもらいやすいと、頑張ってくれていたのだ。

 

 

確かに、そんな評価をいただいたこともある。

(たまに)

 

確かに、そう言っていただいたこともある。

(たまに)

 

 

でも、

どこまで”ちゃんと”やればいいのかわからなくて、

苦しい思いもずいぶんしてきたよね。

 

 

もう、その苦しさは手放してもいい時が来たんだよ。

 

 

”ちゃんと”やらなくても、

私を大切に思ってくれる人がたくさんいることに気付いたから。

 

”ちゃんと”できなかったとしても、

私の価値は変わらないって心から称賛を送ってくれる人が

たくさんいることを実感してきたから。

 

 

だから。

 

”ちゃんと”正確にできなくても、

”ちゃんと”丁寧にできなくても、

”ちゃんと”言葉で表現することができなくても、

 

そのままの

今私が感じていることをそのまんま

発していくことをしていいんだと。

 

それが何よりも大切なことなのだと。

 

許すことができる時が来たんだよね。

 

 

だから、「ちゃんとちゃん」には

然るべき時に、然るべき箇所に対して、

その力を発揮してもらうことにして、

 

日常の中ではゆったりと遊んでいてもらうことにした。

 

いつもいつも頑張っていたら、

「ちゃんとちゃん」が活躍すべき場面で、

その能力を最大限に発揮することができないから。

 

 

だから私は、

思うままに感じるままに、

言葉を解き放っていこうと思う。

 

 

そして、

女神山から帰ってきてからというもの、

 

尽きることなく湧き出してくる

無限のワクワクするアイディアを、

 

遠慮せずに

ビビることなく

真っ直ぐに形にしていってみようと思う。

 

 

自分の中にいてくれる、

たくさんの色々な私の、いろいろな側面たちを、

 

愛すべきその人たちを、

 

私の一部としてしっかりと目を向けて、

これからも共に楽しく歩んでいけるように、

温かいコミュニケーションを取っていきたいと思う。

 

 

愛すべき、いろんな私の側面たちよ!

 

 

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ちゃんとしてない愛すべき仲間と私よ♡

 

 

 

 

女性たちの健全なつながりこそが社会を変えてゆく

女性だけの集まり、というものに苦手意識がありました。
 
でも、その輪に入れないと生きていけない!
というような思い込みを強く持っていたようで、
 
学校でも、社会人になっても、
どうにかその輪に溶け込もうと、
 
自分の中から湧き上がる何とも言えない
ドロドロと淀んだ感情に蓋をして、ないことにして、
作り笑顔でその場に溶け込むことに必死になっていました。
 
でも、どうしたって無理。
 
どうしたって話の内容に共感できなかったり、
そのつながり方に強烈な違和感と反発心を抱いたりして、
いつのまにか女性だけの集まりというものから
距離を置くようになっていました。
 
 
でも、今年の写真をざっと見返してみたら、
女性の集まりの中で、
今まで見たこともないような自然な笑顔で笑っている私がいました。
 
今も見返して、泣きそうになっています。
(ってか、泣いてるなw)
 
 
私は、女性と共に在りたかったんだ。
 
私は、自分が女性であるということを信頼したかったんだ。
 
それを心の底から受け入れ、身体いっぱいで味わい、
女性である私自身をすべて丸ごと愛したかったんだ。
 
 
女性同士が、
人として、
そのまま、あるがままを表に現し、
お互いをただただ見守り合うことだけで、
こんなにも深く、優しく、愛を持って繋がることができるのかと。
 
私は今そのことに、心が震えるほど感動しています。
 
そしてそのつながりこそが、
私自身の勇気と決意に繋がり、
より自分自身を生きていくという思いを強くしてくれています。
 
 
女性の健全なつながりは、
お互いが持つ力を世に出していく強力なエネルギーです。
 
 
お互いに見守り合うこと
 
お互いの今を尊重し合うこと
 
 
それは多くの人の愛を活性化し、パワーに変える力を持っています。
 
私もその一端を担い、
多くの人の魅力と持つ才を社会に還元していくために、
私自身が体現し続けます。
 
 
その思いを決意に変えてくれた愛すべき仲間たち。
感謝と、あなたたちに出会えたことを誇りに思います。

 

 

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