「比べるなんてはしたない」
今朝、布団の中で目が覚め、
たくさんの人たちの「今の声」が、
スマホの画面に流れていく。
その流れの中で自分の目に留まる言葉や風景。
そこから湧いてくる感情。
今朝は、何とも言えない、
胸がキュッと締め付けられるような、
そんな感覚をキャッチした。
そしてその直後、
すぐにスマホを閉じ、
布団の中に潜り込んで、
何やら気を逸らそうと、
気持ちを回復させようと、
直前に見たSNSの情報を、
咄嗟に削除しようともがいている自分に気付く。
自分の中から、消してしまおうとしている私。
何を、消してしまいたがっているのだろう?
何が、そうさせたんだろう?
私は、自分の中に問いかけてみた。
問いかける相手は自分だけれど、
おそらくそれはインナーチャイルドと呼ばれる、
自分の中のもう一人の自分だ。
「私は、悲しいの。
誰かと比べて、自分は…って感じていることが。
誰かと比べることが、嫌なの。悲しいの。
だって私は、いつも私で、ここにいるの。」
そんなメッセージを、キャッチした。
人と比べること。
人と比較して自分を卑下すること。
そこに何の意味もないし、
何も生みださないことを分かっているつもりなのに、
習慣のように繰り返してしまう。
比較することに、意味はないのに。
またやってしまった自分に辟易しながらも、
悲しんでいる自分の気持ちにも寄り添おうとする。
悲しいね。
辛いね。
痛いね。
もう嫌だね。
本当に、もう嫌だ。
そういえば、昨日読んだ記事を思い出した。
先日亡くなった樹木希林さんの言葉を綴った記事だ。
この記事の中で、心打たれた会話のやりとりがあった。
樹木 (略)歩き競争が「よーい、ドン」で始まると、小っちゃい子たちがワチャワチャやってるなか、私だけすぐゴール。断トツの一等賞よ、なんせ身体が天と地ほどもちがうんだから(笑)。でもね、表彰式で私ニンマリ笑ったらしいの。私も誇らしかったのを覚えています。これが私の財産なんです。まわりと自分を比べて恥ずかしいだなんて思わない。おねしょだって恥ずかしいとは思ってなかった。こういう価値観を持てたのはありがたかった。勝因とさえ言ってもいい。これはもう親の教育に尽きますね。親がえらかった。
思い返せば、うちの両親はとにかく叱らない親でした。「それはちがうでしょ」と言われた記憶がない。記憶にあるのは「あんたはたいしたもんだよ」と言われたこと。子どもってヘンなことを言うでしょ、ヘンなこともやるでしょ、それをいつも「たいしたもんだよ」と両親は笑ってる(笑)。子どもを見ているヒマのない時代でしたが、ふり返ってみれば、それでもえらかったなと思うんです。
石井 私の祖母も「誰かと自分を比べるような、はしたないことはダメ」と言ってましたが、その一言は、不登校だった私を支えてくれました。
樹木 そう、そういうことを昔の女性は言えたの、ホントに立派だわ。こう言っては悪いけど、そこらへんのおばあさんでしょ。お坊さんでもなんでもない、ただのおばあさんが「比べるなんてはしたない」と言えるんだもの。
(記事より引用)
「比べるなんてはしたない」
誰かと自分を比べることは、
誰かと自分を比較して卑下することは、
はしたないことなんだ。
自分という人間を侮辱している行為。
それは、はしたないこと。
□はしたな‐い
《形》たしなみがなく、不作法だ。つつしみがなく、見苦しい。
不作法なことを、
慎みがないことを、
見苦しいことを、
どうしてもこう平然とできてしまうのだろうか。
私は私だけれど、
私が所有し、乗っ取っていい訳では決してない。
それは、社会の一員として、
地球号の乗組員として、
果たすべき役割があるからだ。
私も、あなたも。
もう、やめよう。
はしたないことをするのは。
失礼だ。
そして同時に、
起きた瞬間にスマホを手にするのもやめよう。
美しき、奇跡の連続である、
今ここ、という今日のスタートは、
自分への感謝と敬意からスタートしたい。
私、ありがとう。
今日も共に愉快な時間を重ねようぞ。
そう決心した、彼岸の入り。